コンテナを追求するかで“今後”が決まります

私が山や川や木や草に思いを馳せて建物を作ろうとすると、当然のように茅葺きの採用を考えることになる。
そして、翌日つまずく。
ふつう言われるように、職人や材料が不足しているわけではない。
あれは言い訳で、職人というものは仕事さえあれば生れてくるし、茅も刈る人さえいればいくらでも生えてくる。
刈れば刈るほど良いのが育つ。
耐久性もけっこうあって、三十年から五十年というから工業スレート製品や鉄板に劣らない。
にもかかわらず翌日つまずくのは、火事の問題である。
たいていの敷地では使えないし(周囲に十メートルのゆとりがあればいいが)、使える場合でも、火事のことを考えると慎重にならざるをえない。
実際、私が設計した美術館であれこれ考えたが、燃えない茅葺きは無理であった。
縄文人は、燃えて困るようなものを持っていなかったんだろうか。
その昔、屋根には花が咲いていた(芝棟)今回は、日本の民家の屋根にまつわる奇妙な風習について考えてみたい。
頭の上に草を生やして歩いている民族がいたら大笑いだが、それと似たようなことを、実は日本の民家はやる。
芝棟という風習で、草葺き屋根のテッペン(棟)に草を植える。
枯れ草(茅)に生きた草の組合せでこれこそまことの草葺き。
植える草は野芝が主だから芝棟と呼ぶが、イチバツ(小型のアヤメ)とイワヒバも広く見られ、意外なものではユリ、松、アスパラガス、などなど、乾燥に強い植物なら何でもありだ。
先ごろ、芝棟の最後の宝庫″として一部に知られている岩手児の一戸から青森県の八戸までを探訪したら、ニラの白い花がまっ盛りだった。
なんでテッペンに草を植えるかについては、棟の位置は馬の背のように茅が両側に分かれるので、草の根の力でしっかり固めるため、という説があるが、ユリやニラにそんな効果があるとも思えないし、だいいちもっと簡単な方法がいくらもなされているではないか。
私が聞いた説に、棟が乾かないようにというのがあったが、屋根が乾いて何が困る。
こうした理由にならない理由しか伝えられていない風習というのは、たいてい、今日では思いもよらない昔々の事態の名残である。
試しに百年ほど昔に返ってみよう。
明治初期の東海道の宿場の写真を見ると、箱根からこっち(関東)の宿場の屋根はほとんど芝棟。
高度成長前の調査によると、東日本は雪国をのぞいていたるところ、西日本にいくに従い少なくなるが、それでも九州まで点々と分布した。
こういう奇妙を風習は時代がたつにつれて消えてゆく傾向にあるとするなら、時代をさかのぼるに従い、芝棟の分布密度は濃くなるわけで、日本の屋根という屋根のテッペンには草が生えていた時代があったんじゃないだろうか。
もし、こうした風習が今日も残るのが日本だけなら、本当の理由を探る途も絶えるが、さいわいフランスの大西洋側の地方にもあって、そのたたずまいといいイチバツといい日本の芝棟とウリ二つなのに驚かされる。
ユーラシア大陸を間にはさんで、屋根に草の載る地域が二つ。
どういうことなんだろうか。
ギリシャの石の柱と法隆寺の柱の類似とか、ユリシーズと百合若大臣の共通性、などなどユーラシア大陸の両端を結ぶ話はけっこうあるが、フランスの一地方と日本ではあまりに孤立の度がはげしくてうなぎようがない。
現在日本で芝棟密度が一番高いのは二戸か明ら九戸にかけてで、この地域とヨーロッパを直結する伝えとしては、キリストが戸米という村に来て死んで墓があるというスゴイのがあるが、まさかキリストが芝棟をもたらしたとも思えないし、義経がジンギスカンになり、そのヨーロッパ遠征軍が、なつかしいみちのくの芝棟をかの地へと……。
先に見た一戸の芝棟では、長い間にニラの種がテッペンからこぼれ落ちたらしく、茅葺きの裾の方まで清楚な白い花が咲いていたが、もしかしたらずーっと昔は芝棟がずーっと下の方まで広がっていたんじゃないだろうか。
この想像はけっこう派手で、日本の屋根という屋根には花が咲いていた時代があった。
この想像を足掛かりとして飛びはね、ユーラシア大陸を見渡すと、面白い事実が見つかる。
一つは、スカンジナビア半島で、ノルウェーの民家では白樺の樹皮を葺いた屋根面に土をのせ雑草を生やす習慣が今も生きているし、発掘例によると古代の竪穴住居は同様の技法で草に包まれていた。
もう一つは中国の殻墟の住居跡。
日本同様に浅い竪穴に木造の三角屋根をかぶせているが、その屋根は土でくるまれていたことが発掘で確認されている。
中国の考古学者の殿墟住宅の復原案を見ると、土を露出させているが、これはおかしい。
土に草の生えないわけはないし、土が雨に流されないためにも草を植えていたはずだ。
日本の発掘では、北海道の釧路で、身の丈以上の深い竪穴に屋根をかぶせ草を生やした例があるし、東北地方では屋根に土の載っていた竪穴式住居が発掘されている。
スカンジナビア、股嘘、東北・北海道、この三点をつないで考えるなら、ユーラシア大陸の北半分の冬の厳しい地域では、竪穴住居の屋根の上に土を載せ、草を生やし、寒さを防ぐ伝統がかつてあったんじゃないだろうか。
もっと北では氷の家に住んでたくらいだから、これくらいやって当然の工夫だろう。
北方の冬の厳しい風土の中で原始人が工夫したのが枯草を厚く葺く竪穴式住居であることはよく知られているけれども、ハードボイルドの竪穴式というのは葺いた枯草の上をさらに生きた草で仕上げていた、と考えるべきではないだろうか。
こう考えると、日本の芝棟分布において雪国には無い、という理由も分ってくる。
雪国の冬は、よく知られているように、屋根ぐるみスッポリ雪に包まれるおかげで、そう寒くはない。
雪が草の代りをしてくれる。
青森県でも、日本海側の津軽にはなくて、太平洋側の戸のつくところに多いのも納得できよう。
こうして北方に出現した二重草葺きの竪穴住居は、その後、南方に広がるに従い、あるいは気候の温暖化のおかげで、またさまざまな防寒の工夫により、必要がなくなり、まるで春に山の雪の溶けるように(いいたとえだナア)、しだいに屋根の裾の方から消えてゆき、最後に峰にだけ残った。
″君知るや、芝棟は春の富士∴ネ上の話を正しいとして、ではいつ頃まで日本の竪穴式住居は草にすっぽり包まれてい画たんだろうか。
この間題は実に難しいが、竪穴式が全盛した縄文時代が終った以後も、冬の厳しい地方には長く残り、飛鳥時代くらいまでは続いていたんじゃないだろうか。
たとえば、『日本書紀』には、東国の蝦夷について、「夏は棟に宿、冬は穴に住む」と書かれている。
この言い方は、大和朝廷の使節団が中国に蝦夷を連れて行った時の説明で、中国が北方の蛮族の北秋を形容するやり方を転用しただけで事実ではないとする説もあるが、北秋と蝦夷の北方的環境は似ていたわけだし、蝦夷が穴に住んでいるように大和の人の目に映ったんじゃあるまいか。
蝦夷のことを土蜘妹なんて形容しているのも同様だ。
しかし、当時の東国の住民が本当の穴に住んでいた証拠はない。
横穴に住んだのはもっと前のマンモスを追っかけていた頃だし、竪穴式住居もタテの穴とはいうけれど、ごく浅くて、とても穴とはいえない。
にもかかわらず、どうして大和の目、おそらくヤマトタケルの東国遠征軍の目に、蝦夷の住む竪穴式住居が穴に見えてしまったんだろうか。
当時、大和にも竪穴式住居は多く、普通の人々は竪穴式に住んでいたわけだから、自分たちと同じ作りの竪穴式を「穴」なんて馬鹿にすることはできない。

読者や視聴者をひきつけるコンテナの文章やコンテナの構成を考える能力はすごいと思う。
「コンテナボックス」は表現者の主観、解釈が加味され一つの立場が表明されるコンテナボックス文章である。
レンタルコンテナの事柄の内容や意味を、レンタルコンテナとしてよく分るように解き明かすこと。